おとなのじゆうけんきゅう

あなたのすぐそばに、マルチが…

番外編:私にとっての神様とは。

 

久しぶりにやってきました。

この所界隈ウォッチングアカウントをじっくり拝見する事もなく、界隈をウォッチングする事もなく、コロナウイルス関連情報とマスク情報の収集に力を入れておりました。

 

ふと戻ってみれば生まれ変わりや龍や霊視やなんやと相変わらずな界隈で、アンチ()disりも相変わらず…と言う事である意味安心(?)した訳ですが、離れていた分ざっとTwitterと界隈での出来事を遡って思い出した事や感じた事を書いてみようかと思います。

 

今回もまとまらぬ記事になりますが、よろしくお付き合いください。

 

  • これからはスピリチュアルがくる?

コロナウイルスや日本と海外の関係などなど…

連日メディアに煽られてウイルスよりも不安が蔓延している今日この頃。

 

Twitterでとあるインフルエンサーこれからは得体の知れない不安から見えない世界や宗教・スピリチュアル関係へと傾倒する人が増えるのでそっち方面に投資すると投稿しているのを見かけた。……私も実はそれに同意だった。

 

嫌な予感からしばらく離れていた界隈ウォッチングへ戻ってみれば案の定。以前から得体の知れない不安に群がっていた得体の知れない霊視や生まれ変わりやが得体の知れない方向へ大暴走の妄想大会。

 

見える視えるって一体何がそんなに視えてるつもりなのかと不思議に思うと同時にどうしても許せないのが、界隈で"教祖化"した連中の神様や龍や霊的な物への扱いなのです。

 

 

  • カモ予備軍だった私。

以前もお話した通り、私は一時期、自己啓発関連本を買いあさり、周辺ブログを読みまくり、某委員長や元旦那・某自称カウンセラー的な事をする方のブログなどにもたどり着き愛読していた"カモ予備軍"。

 

「生きづらい」「何もかもうまくいかない」「不運が続く」など色んな要因が重なって、自分の生き方を改めようともがいたあの頃。

 

更に告白すれば、支払いが苦手だったり滞る事もあったし、確かその頃、カードの支払い遅延のせいかローンも組めなかったと思う。そこまで金銭的に苦しかったわけではなくて、「そう言うことが上手くできない人」「お金を払うこと・失う事が怖い人」「計画的にお金を使う事ができない人」だった。

 

話が逸れまくって申し訳ないが、私の父は金遣いが荒く借金を抱え、苦労する母の背中を見ながら育ったため、「そうはなりたくない」と思いながらもお金との向き合い方を知らずに一人暮らしを始めたため、将来への不安もひとしお。

 

特に私生活で何か大きく落ち込むような出来事はなくとも、10代の頃から漠然とした不安や鬱々とした気持ちを抱え、実家を頼る事もできず、でもお金や自分の短所と向き合うのは怖くて…と言う負の無限ループとも言える精神状態でかなり長い間を過ごして来た。

 

先に言っておくと、

支払いをきちんと済ませる事や節約する事を覚え、人並みにカードを持つ事ができるようになった今でも(まあカードって審査甘いですけどw)以前よりは小さくはなったがこの"漠然とした不安"は消えてはいない。

 

だがあの頃は特に、漠然とした不安が大きくのしかかっていた。

 

自己嫌悪が激しく、恋愛や仕事やも上手く行く事はなかった。

殴られたり都合の良い関係でズルズルと数年を過ごしたりなど色々な事があったし、仕事では解雇された事もあった。

 

でも。今振り返れば小説にでもするような大恋愛をしたわけでもなく、天涯孤独な訳でもなく、友達も普通にいたし仕事も探せばすぐ見つかった。

 

私の人生を「苦労して来たんだね」と言う人もいるけど、"壮絶な人生"と呼ぶほどの物でもない。物を知らず人を疑わない10代の田舎者が突然一人暮らしを始め、似つかわしくない場所に自ら身を捧げてしまったのだから多少の失敗や不運は回避できなくても仕方なかったと今では思う(笑)

 

"それなりに不運な女の子"それが私だった。

 

だからこそ、信者たちの、「そんな自分を変えたい」と思うその気持ちは、理解できるつもりです。

 

でも実はこれが逆に「めちゃくちゃ不運な人」だったら自力で這い上がって成功してたりするんだよね。

 

中途半端に不運に見舞われ、死にはしないけど生活にも困ってはないけど…でぬるくなら生き抜けてしまう私のような属性は、何処かにまだ甘えがある上にプライドや理想が高く、無理に周囲を出し抜いて這い上がろうと頑張ってしまう。

 

無駄なプライドから見栄を張ってしまう。

 

誰にも救いの手を求めず、安心感を得ようと似たような属性の人間とつるむも、そのコミュニティの中でさえ「上だ」「下だ」とマウントを取り合い一緒に堕ちて行く。

 

堕ちてる事に薄々勘付いてはいるのでもがいたあげく、周囲を出し抜くための策…「何か人と違う事を」…そう思った時、界隈のぶっ飛び理論や派手な生活(当時は)を目の当たりすると今度はそれに共感し、「普通に生きている人」に対してマウントを取り始めてしまう。あの方達の生き方が、すごく魅力的に映るんですよね。

 

でも、飽くまで「誰かを下に見るための大義名分として」。

 

ここに生きづらさを脱してこんなに自由にお金を稼いでいる人がいる!この人達はこれまで自分を見下して来た周囲の普通の人間とは違ってこんなに輝いている!

 

そう思う事で"普通"な周囲を見下す大義名分を手に入れたつもりになってしまうんです。所謂万能感ってやつでしょうか。

 

「これまで自分を見下して来た周囲」なんて、そりゃ少数は居たかも知れないけど、ほとんど自意識過剰な妄想なんですけどね(笑)

 

そこに"パワースポット"とか"遠隔ヒーリング"とか、なんと言うかさも「簡単に人生が好転する」かのように思えるスパイスを加えられると、私のような努力が嫌いなクズは簡単に引っかかるのです。

 

今思えば、恋愛にしろ支払いにしろ、仕事に至るまで全部が自己責任。周囲も自分も大切にできなかった私が原因で起こった不運としか言いようがない。

 

(パートナーのDVや浮気は別としてね。

ほんとにこれだけは忘れない。なぜわざわざ覚えてるかって?「自分は絶対にこんな風に人を傷つけない」って自分への誓いのため!もう恨みの感情はない、でも自分のために忘れない。あ、でも言っとくけど、叩かれるためになんか生まれてきてないからね?)

 

だけど、こんなクズにも神様は平等だったよ!って話が、今日のメインでございます。

 

 

鬱々状態だった私がある時にどうしても惹かれてやまなかったのが、スピリチュアーたちがこぞって参拝していた伊勢神宮です。

 

この頃、わたしはどうしても成就させたい恋をしていました。…と言っても、かなり成功率の低い恋です(笑)…薄っぺらな理由で超お恥ずかしいのですが、当時の私は真剣そのものでした。

 

訪れた伊勢神宮はとても空気が清らかで、賑わっているにも関わらずどこか静かで、厳かな場所でした。

 

ただ、歩いているだけで心が軽くなり、同時に「お行儀よくしなきゃ」と背筋が伸びるような場所。

 

2泊3日で外宮・内宮を周り、神様に私の願いを叶えて頂こうと執念にも近い感情を抱いて向かった本殿で私が手を合わせようとした時、偶然なのか目の前にあった御とばり(暖簾のような白い布)がふわっと舞い上がりしばらく舞い上がったままに。

 

「大丈夫だよ」「よく来たね」と言われているようで胸がいっぱいになりました。

 

でも、いざ願いをお伝えしようと神様を目の前にした私は自分の中にあった執着や執念に近いドロドロとした恋愛成就の願いをお伝えする事ができなくなりました。何故かお伝えしてはいけない気がしたのです。

 

そんな事より胸がいっぱいで。さーっと霧が晴れたような気持ちで。

 

「本当にこの恋を叶えて幸せなのか?その人じゃないといけないのか?」「もしかして私はすごく小さな、しかも不毛な事に拘ってたんじゃないのか」

 

そんな疑問も、一瞬脳裏をよぎりました。

 

そこで無理やりに恋愛成就のお願い事をするのは絶対に違うと感じた私は、

 

「叶えてほしい恋がありますが、もし私の相手がその人でないのであれば、ふさわしい誰かに出会えますよう…これからも人生が良くなるよう頑張りますので、どうか色々と上手く行くように見守っていてください。」

 

とお願いし、伊勢神宮を後にしました。

 

もちろんその後、すぐに何もかも上手く行く…と言うことはありませんでしたが、それから程なくして今の彼との出会いが訪れ、「合わない」と思いつつもズルズル続けていた仕事をきっぱり辞めて新天地に踏み出し、ブラック業界に飲み込まれそうになりながら踏ん張り…相変わらず紆余曲折ありつつも今現在幸せに暮らしているのは事実です。

 

また、彼と付き合うようになった後は教祖ブログを読むもふに落ちない事や矛盾点を調べる内に、界隈ウォッチャーの皆様と出会い、完全に足を洗うことができた事も付け加えておきます。

 

これも、本当の神様に出会えたから…なのかもしれません。

 

エセスピリチュアルに感化されていたとは言え、あの時伊勢神宮へお参り出来たことは結果、私にとってとても良い選択だったと今でも思っているし、機会を見つけてお礼参りを…と思っています。

 

 

私は今でもどこでも、お参りをする時は心の中で辛い思いを聞いて頂く事はあっても「でも上手く行くようがんばりますので見守ってください」とお願いするようにしています。

 

参拝した事に甘えて努力を怠るのではなく、見守って頂けている事に勇気を頂き日々前向きに生きる事が神様との約束で、私なりの作法としているからです。

 

参拝は私にとって、迷ったり暗い気持ちになった自分の背中を押すための儀式です。

 

私はこの出来事以前にもパワースポット巡りや寺社仏閣への参拝を行いましたが、その度に神様仏様、龍神様にも心を洗って頂き、前向きな気持ちを頂戴して来ました。何度も背中を押して頂きました。

 

私の中で神様とはそう言うものです。

ほかには無く、人間では持ち得ない力を持つ存在だと思っています。特に強く信仰する宗教は持ちませんが、無神論者ではなく、世の中にはあらゆる神様や霊的な何かが存在すると信じています。

 

 

  • 界隈における神様とは?

そこで「近頃の界隈の動向にはモヤモヤしてしまう」と言えば、もう皆様にはお分かり頂けるかと思います。

 

もう散々言ってきましたし、フォロワーの皆様もおっしゃってますが。

 

「ナントカの生まれ変わり」だとか「龍がどうこう」とか「霊視ができる」とか…

 

はっきり言って舐めとんのか!?

 

って感じです。

 

上手く言えないのですが、とにかく軽々しく心理カウンセラーや占い師、霊能者を名乗るような人間が、軽々しく神様やそう言った存在を扱うのはやめてほしいのです。

 

私自身、霊視や占い、もっと言えば心理カウンセリングなどを全否定している訳ではありません。ただし、そこに"良心を感じるか"にベクトルを置いてそれらを判断しています。

 

時には心理学的な話に、時には占いに興味を持ち、自分の資質や今後について深く考える夜もあります。むしろ良心的に人の心に寄り添ってくれる物であればこれらの分野は大好きです。

 

霊視に関してもあまりに傾倒しすぎた人間に「霊視の先生にこう言われたからあなたとは付き合わない」などと突然言われ無駄に傷ついた事が2度ほどあり(笑)(うわ、これもええネタやなまた書こうw)懐疑的ではあるものの、全否定はしません。

 

きっと界隈が次々と発信する薄っぺらい似非スピリチュアルやトンデモ理論に、スピリチュアルとは何か、人間の心理とは何か…占いとは…などなどを真に理解し、ひいては心や内外の癒す事、人の役に立つ事や関わった人の生活を豊かにする事などを目指し努力なさっている皆様は、辟易していらっしゃるだろうとも思うのです。

 

キラスピで命を落とす例は少ないかと思いますが、トンデモ医学や代替療法に至れば人命に関わります。

 

やりっぱなしの無責任では済まされない。

専門家にも神様にも失礼極まりない行為です。

 

こんなことを言えば、界隈には「自分の理想の神様像を押し付けるな」とか言われそうですが、こっちから言わせてもらえば自分の願望・承認欲求のために神や龍や霊やの存在領域を容易に侵さないでくれ!って気持ちです。

 

あの人たちには到底人の心を清めたり背中を押して自分の足で前向きな人生を歩むよう導く事が出来ているとは私は思いません。

 

過去にはそれぞれに多少存在していたであろう良心も、今や彼らから感じる事はできません。

 

あれだけこぞってパワースポットを巡っているにも関わらず一向に浄化されないようですが、あの手のドロドロには神様もお手上げなのでしょうか。

 

そう思った所でふと思い出したのが、「神社の鏡」のお話です。神社にお祀りされている鏡には、参拝する自分の姿が映り、自分を拝む事になります。

 

以下引用

自分を拝む
自分を拝むということは「鏡に映る自分自身の神を拝み、自分の行動を自覚する」という意味があるといわれています。
神社は、ご神鏡に映った参拝者自身の自分の中にある神様を自覚できる場所でもあります。

鏡(かがみ)という言葉から、我(が)をとると神(かみ)になるのをご存知でしょうか?
ここで、が(我)をとれれば、ありのままの素直な自分を認めることになり自分らしさを思いだし、すべてのことに感謝を感じられるようになれるということです。

引用終わり

引用元:神社に鏡がある理由・意味は?ご神体についても詳しく紹介します!神社に鏡がある理由・意味は?ご神体についても詳しく紹介します!|終活ねっと

 

….つまり、いくらパワーに満ちた神社を参拝しようとパワースポットを巡ろうと、現在の自分の心に向き合う事のない人たちには、神様のお声は届かない、パワーも届かない、って事かもしれませんね。。。

 

 

 

 

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ちなみに・・・

実は"ふさわしい誰かと"と言うお願いのしかたは、京都では有名な恋愛成就のお地蔵様のいらっしゃる「鈴虫寺」でのお説法での教えです。

 

「かっこよくてー!お金持ちでー!…」とか「●●さんと結ばれますように」などとお願いするのではなく、あくまでも「私とふさわしい人と結ばれますようにとお願いしてください。」と事前に住職さんからお話があります。

 

その時も同じく執念にも似た願いを持って鈴虫寺を訪れた私でしたが、このお話にものすごく納得していたからこそ、分不相応で身勝手な願いを自社仏閣にお伝えする事に疑問を抱けたのだと思います。

 

そう思うと鈴虫寺のお地蔵様も、自分を下げるような相手との恋は決して叶えてくださらなかったな…。

 

(分不相応、ふさわしい相手、とか言うといかにも相手が自分なんかでは釣り合わない相手だった…と思いがちですが、その逆も然りって事もお伝えしておきます。)